無自覚の覚醒者
かくゆうわしもparty people でマツリ大好きの祭り男である。
しかし、昨今の政治離れと相反するかのように各地で盛り上がるパーティー、フェス、マツリ。
言葉と現象が日々かけ離れていくようなこの現象はなんなのだろうか、
マツルコト=祭、祀り、奉り、政
party=集う、社交、政治団体
人が集う行為と政治が直結していた。
人が集まる場を開き、仕切る者には権力が生まれ。
政治という名の駆け引きが始まった。
女の独占欲と男の嫉妬心の極み、
気付けば貪欲な者たちの欲望の極み=政治に経年変化してしまった。
では、その汚らしくも感じてしまう欲望の塊を無視して、接することを辞めてしまったらどうなるのだろうか?
大きな現象としてみると実感が湧きづらいが、ミクロの現象、自分自身の中で起こっていることも同じことが起きている。
敵は我なり。
欲望、これは人類が常に向き合ってきた最も手強い内的なモンスター、敵でもある。
欲には際限なく次から次へと湧き出る泉のようなもので、食欲、睡眠欲、性欲から始まり、出世欲、支配欲、独占欲とキリがないが、逆にこれが尽きたら人はエネルギーを得られず死んでしまう。
肉体と精神を維持するために欲は無くなっても追い続けてもバランスを崩してしまう、絶妙のバランス感覚が必要なのだ。
ここで重要な事は、欲とはパーソナルで超個人的な内面の事情でありながら、バランスを得るため、中心点を見出すには相反する超全体的、いわゆる社会的な視点が必要になってくる。
他者との距離感を測る客観的な視点だ、いわゆる間といわれる無いけど在る、モノでもコトでもない感じ。ま。である。
磁石はくっつくか反発するか、引力と斥力のバランスでモーターが回り、電力や動力が生まれたりする。
欲とは磁力みたいなモノで、引きが強すぎると何でもかんでも引っ付けて自らが埋まってしまうし、反対にしりぞける力が強すぎると周りを排除して孤立してしまう。
この現象を人は愛とか氣とか言ったりもする。
この力、地球にあるありとあらゆる現象の根本でもある訳だが
ありすぎてもなさすぎても人、ないし地球ははバランスを崩してしまう。
この力を使いマをツルことで人を引き付けエネルギーを集める装置がマツリでありパーティであった。
日の本では人と間を組み合わせて人間と言う。
この言葉はこの地で生まれた純度の高い言葉、事派、コトハだ。
そしてこの波動は意識するだけで現実化するという魔法、間法でもある。
これは人が言葉と意識で生み出す自然現象である。
ここでひとつ、間違ってはいけないことだが、意志の力は良くも悪くも、どちらにでも使える力でもある。
政治の世界においては間を違った方法で使ってしまっているということだろうか。
この距離感を知るために人はぶつかったり離れたりして色々な問いを解決してゆくのだが、これは一人で立ち人に揉まれ、切磋琢磨しながら自らで見出す距離感でもある。
誰も正解を一言で表すことは出来ないし、教えることも出来ない。
ここで問題が浮き彫りになってくるのだが、いまの権力を持った政治家の殆どが世襲制でいわゆるボンボンのためにこの切磋琢磨して自らの欲を削り人との距離感を図るということをしないまま、お金と地位の力で大人になった者の集まりになってしまっているので、簡単に言えば間の取り方が解らない。=間抜けの集まりになってしまって、しまった死間ったというコトになる。
では、逆に間に合うコトとはどういう事なのだろうか、、
日本語は優れた言語である。これも言葉に表されている。マアイ、間合、真愛。
真実の愛である。独善的な愛ではなく他者を想う愛。見返りを求めない愛。
在るがままを愛する。干渉も無視もしない、絶妙の距離感の愛。
では、具体的にどの位の距離なのだろうか?
やはり、日本語は優れている。
”1間=6尺と定義され、1尺=(10/33)メートルと定められたので、1間は約1.818 1818メートルである。
60間が町(丁)となる。また、1坪(歩)の面積の正方形の1辺が1間である。”
要は間=一歩ということだ。
そんなもん人によって違うじゃないか、と思うが
ま~いい、ま、いいか!位が調度いい加減でいいかげんなのだ。
そして、いよいよ本題に入るが、この間を詰めるというのは言い換えると
エネルギーが集まるという事であり、言いたかったはこの現象の可能性だ。
出来ない原因を知ることで出来ることの可能性が見えてくるのだ。
人というエネルギーが集まることによって何が起き何が起こせるのか、
この可能性と方向性を決めていくのが本来の政治であり、建設的な未来の構築であるが、ここで引っかかるのが、欲であり引力の加減である。
この力の加減が丁度良い距離感、間を図ることで磁石が回り続ける永久発電、永久動力を生み出すことができるのだ。
これは男と女であれば子が生まれ、保守と改革であれば中道が生まれてくるのだ。
これが多くの日本人が白黒はっきり付けず、日和見であり自らの意思をはっきり言わない理由でもある。しかし興味がないわけではなく間を測っているのであって、その中道を行く政治政党の出現を待ち望んでいる。
現状を野放しに、しかし虎視眈々と見つめている。自らは手を出さずとも意識の力で生み出すことができる。そうなることを知っているのだ。しかし、無自覚に。
フランスのルモンド誌で日本人は”無自覚の覚醒者”と揶揄されている。
でも、ま、いいか。