ヒラキ ナオル

日々全出 アニッチャー 

聖地巡礼 其の後

年明けの初仕事は小林陽介という男に召喚され紀国、熊野に行ってきた。
召喚というのも彼は昨年11月11日にこの世からあの世へ旅立ったからだ。
彼の死と向き合うことで今まで曖昧模糊としていた魂(たましい=みたまとつながる)というものが何なのかが腑に落ちる旅となった。
 
彼が終息の地に選んだ熊野の北山は偉大な自然の山深い中、青白い水が流れる絵に描いたような三途の川の彼岸で、黄泉の国の入り口の様な集落だった
死者、使者のマツリゴトをただ”やる”という目的以外に何も計画のないまま、何かに呼ばれるように熊野入りした。
生前陽介とは絡んだようで絡み切れず、互いを知るためにはもっと時間が必要だった。
互いに表現者として惹かれあっていた様な気がしたが、まさかこんなに早く逝くとも思っていなかったので、やり残したことが多くあった事に彼が死んでから気が付いた。
後悔の念を晴らす為にも、彼の肉体はもう現世にはないが、全て彼にオーガナイズされるように導かれることに委ねることにした。 
思い返せばそのころからこの祭への陽介の仕込みは始まっていたのかもしれない
そう思えることが何度もあったし、その場にいた数人からも同じような声を聞いた
目の前で次々と起こる超常現象は、現世と黄泉の世界の境目が実はとても曖昧でつながっていると伝えてくる
 
陽介とは縁あって3年程前に尾張名古屋のど真中に位置する日置神社で毎月二八まつりをひらいている時に奉納を演じる形で参加してもらっていた。
この祭もご縁から導かれるように始めた。ただ使命に応えるべく祈りの場を整えていた。
ここ尾張日置神社織田信長が必勝祈願の舞を奉納した場であり、麻の六芒星が社紋である。
そこに現れた表現者たちは自らの意思、ないしは何かに呼ばれ集った者たちだった。

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その頃は自らで彫った面をして5.6歳の息子タオと太鼓を叩いたり踊ったりとパフォーマンスしたり絵や書を書いていた。

後で聞いた話だが、そのころは彫刻ではやりきった後で表現手段を試行錯誤していたようだった。

彼は毎月遠く奈良の地からやって来ては、無条件に演じ終わると同時に消えている。
その動きはまさしく神出鬼没で、わしの目からはその行動自体がまぎれもなく表現だった。
”神事の仕事は分刻みだ!”と彼が言っていたことが懐かしくも蘇る。
 
彼の美しい死に顔を見たときに彼の残した作品と彼の行動が全て立体的につながった 
木彫刻という肉体の外側の造形から自らの肉体の表現、活動、魂の旅路へと内側に向かっていき、晩年の彼の活動は自らの肉体を作品として作り上げていった

その彼の無条件の表現、愛が時空を超え、彼の死後も人を突き動かしている

わしは彼の残した魂に反応し彼に突き動かされる様に場を整え続けていた。

二八祭は良い終わり方ができなかったと思っていたが、今回を機にすべてがつながり腑に落ちた。今となってやっていたことが報われた気がした。
 
更に驚く事に当時の写真を見ていて気付いたのだが、同時期に祭りに参加してくれていたがその時はすれ違い面識がなかった同年同名の陽介が近所に住んでいるという。
彼とは3年越しでの再会である。

因みにこの集落は日本で唯一、蛇払(じゃばら)という柑橘類が取れるのだが、この柑橘も縁があり、4年ほど前に友人と酵素を研究していた時にたどり着いた柑橘類でこの集落にしか生えていないので取り寄せたりもしていた。

思い返せば全てが運命である。

体現できたことに、彼の愛に感謝。

生きていること自体有り難し。多くの気付きをありがとう。