ヒラキ ナオル

日々全出 アニッチャー 

さて我々がこの嘘がまかり通る世界で生き延びるにはどうしたらいいのだろうか?

少しでも身の回り、社会をよくするにはどうしたらいいのだろうか?

 

独りでいくら悩んでも答えは出ないし、見ないふりしていても事態は深刻になる一方

地球という星で共に生きるいち生命体、いち細胞として避けることの出来ない運命

今という現実。しかしこの国のそれはまやかしで固められた現実だ

そのまやかしから抜け出すには現実を直視して そこから生き延びる術を見出す以外はない

 

ここで注意することは情に流されない、感情的に物事を見ないということだ

起きていることをあるがまま起こるがままを受け入れただ見届ける

そこにはどうにかしようという意図は必要ない

 

するとその対象は自然と昇華されていく

諸行無常 全ては現れ消えていく

その邪魔をしてはいけないのだ

物事に情を入れるとそこに留まるエネルギーが生まれる

味わい尽くす為には止まらなくてはいけないからだ

これは一見良いことのように思えるが、停滞するということがどういう現象を生み出すか自然界においては例えば水は止める事により淀み腐る。空気も同様に代謝しないことが滞りを生み出してしまう。

 

情深い日本人はこの点を利用されコントロールされている

 

しかし、こういった一見ネガティブな情報はきちんと向き合えば対処法を考えることができる。

これはとてもクリエイティブな行為で創造的な行為。言い換えればデザイン思考ともいえる。

 

美しく問題解決を図る術=デザイン思考

 

問題解決の為のプロセスの初めに 現状を知る ということ無しに問題が何だかを読み取ることは不可能だ。

例えば英語のテストに出てくるマイケルや数学のテストに出てくる数式に感情移入していては問題が解けないように

現実にある人間の情念が複雑にに絡み合った問題を感情移入して解くのは非常に困難であることは容易に想像がつく。

 

こういうこと言うと語弊を招くかもしれないが、

人にこの話をすると感情は悪いものではないといった話になってしまうことが多いのだが、そもそも感情に良いも悪いもなく、問題と情念を切り分けて考えるのが問題解決に必要な条件であるというだけのことだ。

ここでも感情が入り込んでくると一向に話が進まない、これが情の罠でもある。

情そのものは良し悪しはないのにその情に感情を入れ込んでしまうと流れを見失い、文脈であったり、歴史等の繋がりの中での今という前後の時空感覚を失ってしまう。

感情の波に飲み込まれると情を主軸に物事を見てしまうので、客観的判断ができなくなり、独善的な判断に陥りやすくなる。

そこでは前後がないので、刹那的な判断を下してしまうことにもなりかねない。

 

これが情の深い日本人が陥りやすいドグマでありドラマである。

これはハマるとどどどらヤバいルーティンであり、この現実と向き合い、対処法を見出さないと先に進めずグルグル回り続ける まるで籠の中のモルモットである。

補間力

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現在の日本はいかなるものか、、、

政治、社会その他現実は人々の意識、無意識が作り出している。

かたや地獄絵図のような鬼畜や腐敗があり、かたや天国、天使のような希望の種があったりする。

あえて一言にしてみたが、この時点で、物質的な人物ないし人間性とその間である関係性と2つのレイヤーがある。

絶望的な現実は言わずもがな、マスメディアの洗脳に始まり教育、医療、農業、福祉など政治の影響で転落人生まっしぐらの国家の実態が溢れている。これは今に始まったことではないが、表立って顕在化してきたのここ数年、特に311以降隠し切れない、いやむしろ開き直って私たちの目の前に次々と現われては消えていく?、、

かたや、文化的側面では希望としか言いようのない天使のような存在が次々と現れている。物質的には豊かな世界になった故、芸能や音楽、芸術、はたまた将棋や書道、のような道の世界でも天才的な才能は明らかに今までとは次元の違う次世代が生まれてきている。

この希望と絶望の隔たりの大きさ、距離は日本は世界に群を抜いているように思う。

この要因は色々あるが、まず自然信仰といった日本という島で育まれる性質による影響は大きい。四季折々自然の変化が豊かなこの島国では、自然を受け入れ、その中で創意工夫をしながら生きてきた。日本人はDNAレベルでその習慣が身についている。

これは自然が自然である内は環境と一体化し、法と一体化するのでとても生きやすく、神の御心のままあるがまま、全てが起こるべくして起こる。ここに無理はしていないので負担やストレスがかかることはない。

が、しかしこれが不自然の中でならどうなるだろう、、不自然とは文字通り自然が不足している状態としての不自然で、人間の愚かな行為も含めて自然というとらえ方はしない。

かつては森の中、緑の中で生活していた人間がコンクリートアスファルトで固められ呼吸不全に陥った酸素の薄い世界でひしめき合っている。

この中で生きるには自然の法よりも人間の法が上位になり、自然環境を壊してでも人間の利便性、経済効果を優先させ文明は破壊の一途を辿る。

道を誤ったまま盲目に、ないしは迷いの中どこに向かうかもわからず進む、その混迷にも順応してしまう人類迷走時代。

かたや瞑想し、目覚める人々。

両極といってもいい程に隔たりは果てしなく、遠く感じる。

この極の隔たりを補完する力、いわゆる補完力が今人類に必要とされている。

言い換えれば理想を現実に変える力。である。

何が理想で何が現実か、そのへだたりの間に何があるのか、それらを解析しこの関係性に変化を与える、中心点辺りに氣を与える力。

それは問題解決する力であり、デザイン的思考から育まれる力でもある。

 

目覚めたものはもう後戻り出来ない。

現代のITが切り開いた世界は眠りから覚める人を急速に増やしている。

今後、眠る人が増えることは考えずらい。

が、未だ眠り続ける人は置いてかないでと言わんばかりに目覚める人の足を引っ張る。

巻き込まれないように注意が必要だ。

ひとまずは自らの眠っている力を目覚めさせ

川の土手から溺れる者に手を貸す事は何時でもできる。

まずは驕りに溺れぬよう

 

御霊巡礼

人は身近な人が死ぬことで魂の存在を知るという。

2018年最初の仕事は昨年末若くして亡くなった彫刻家であり芸術家である小林陽介の魂とのセッションだった。

神事は秒刻みと自ら語る彼は、思い返すと生きている時から時空を超え、まさに神隠しのような行動全てが大いなるモノの意志を示す表現のようだった。

私が場を開くと彼は何処からともなく作品を持って現れ、時には踊り、唄い、様々な身体表現をして気付いたときにはもう消えていた。

https://www.instagram.com/p/BH6G_d9j5ad/

山選

そんな彼とは現場では会うがゆっくりと話をする機会は少なかった。

しかし、彼方此方ですれ違う瞬間に言葉を超えたコミニケーションを交わし、互いの使命を確かめ味わうよう共に場を生み出し、また自信を持ってそれぞれの道を進むことができた。

そして彼は今世最後の場所を紀ノ国の玉置神社の麓に選び、きっちりと魂を置いて旅立っていった。

最後は自らの最高傑作といっていいほど美しい肉体を残し、そして生き様という形にならぬモノを残していった。

えらい遠くにいってまったなと思っていたら、肉体は消えたが、御霊はヨウスケノカミになって現生では味わえなかった程に近くに存在していて、そうだそうだ、と自分の中で一体化しながら話しかけてくる。

彼が魂という存在になったことで生きていた時には出来なかった実態を超えたコミニケーションが可能になった。

気付くと導かれるように召集されお前の仕事はこれだよと

彼の残した作品、魂と向き合っていると言葉を超えたメッセージを投げかけてくる。

何をしたらいい?これだよ。

ここかな? いやあっち。

そう、ここに置いてくれ、

これどう思う? 最高!

そうゆうことか!!そうゆうことなんです。

しまいにはこっちもあっちもなく腑に落ちる出来事の連続

お蔭で安心して自分を明け渡すことが出来た。

よく考えると文字通り全身全霊で仕える事ができる仕事を全うしたのはこれが最初なのかもしれない。

本当の仕事とはこういうことなんだ。

この時集まった人々は皆、一人の男の魂に呼び寄せられ

コバヤシヨウスケという大いなるモノと一体化した意思に従い

お膳立てされた配役に徹しているようだった。

ひとりひとりが表現しながら各々の仕事を通し使命を全うし

全て然るべきことが起きているのだと確信を持たせてくれた。

最高に幸せな瞬間を共有していた。

 

小林陽介を偲ぶ会

https://www.youtube.com/watch?v=wSbttmrNO8k

 

情事

https://www.instagram.com/p/BaMSGzAnJ4y/

Instagram post by IJT aka パカッ太 • Oct 13, 2017 at 2:41pm UTC

さて我々がこの嘘がまかり通る世界で生き延びるにはどうしたらいいのだろうか?

少しでも身の回り、社会をよくするにはどうしたらいいのだろうか?

 

独りでいくら悩んでも答えは出ないし、見ないふりしていても事態は深刻になる一方

地球という星で共に生きるいち生命体、いち細胞として避けることの出来ない運命

今という現実。しかしこの国のそれはまやかしで固められた現実だ

そのまやかしから抜け出すには現実を直視して そこから生き延びる術を見出す以外はない

 

ここで注意することは情に流されない、感情的に物事を見ないということだ

起きていることをあるがまま起こるがままを受け入れただ見届ける

そこにはどうにかしようという意図は必要ない

 

するとその対象は自然と昇華されていく

諸行無常 全ては現れ消えていく

その邪魔をしてはいけないのだ

物事に情を入れるとそこに留まるエネルギーが生まれる

味わい尽くす為には止まらなくてはいけないからだ

これは一見良いことのように思えるが、停滞するということがどういう現象を生み出すか自然界においては例えば水は止める事により淀み腐る。空気も同様に代謝しないことが滞りを生み出してしまう。

 

情深い日本人はこの点を利用されコントロールされている

 

しかし、こういった一見ネガティブな情報はきちんと向き合えば対処法を考えることができる。

これはとてもクリエイティブな行為で創造的な行為。言い換えればデザイン思考ともいえる。

 

美しく問題解決を図る術=デザイン思考

 

問題解決の為のプロセスの初めに 現状を知る ということ無しに問題が何だかを読み取ることは不可能だ。

例えば英語のテストに出てくるマイケルや数学のテストに出てくる数式に感情移入していては問題が解けないように

現実にある人間の情念が複雑にに絡み合った問題を感情移入して解くのは非常に困難であることは容易に想像がつく。

https://www.instagram.com/p/BSkBryYAoO6/

Instagram post by IJT aka パカッ太 • Apr 6, 2017 at 11:48pm UTC

人にこの話をすると感情は悪いものではないといった話になってしまうことが多いのだが、そもそも感情に良いも悪いもなく、問題と情念を切り分けて考えるのが問題解決に必要な条件であるというだけのことだ。

ここでも感情が入り込んでくると一向に話が進まない、これが情の罠でもある。

情そのものは良し悪しはないのにその情に感情を入れ込んでしまうと流れを見失い、文脈であったり、歴史等の繋がりの中での今という前後の時空感覚を失ってしまう。

感情の波に飲み込まれると情を主軸に物事を見てしまうので、客観的判断ができなくなり、独善的な判断に陥りやすくなる。

そこでは前後がないので、刹那的な判断を下してしまうことにもなりかねない。

 

これが情の深い日本人が陥りやすいドグマでありドラマである。

これはハマるとどどどらヤバいルーティンであり、この現実と向き合い、対処法を見出さないと先に進めずグルグル回り続ける まるで籠の中のモルモットである。

なにゃどらや

https://www.instagram.com/p/Bk2FIpyFXhm/

不思議なご縁で辿り着いた二度目の#光原社

質素の中にある美しさ。純朴な手仕事と質の高い暮らし。

謎多き文化の残る岩手イーハトーヴォ。この旅はより深く賢治の見た世界へ

#ナニャドラヤ#ヘブライ#ミセハシ#エミシ#二戸

 

ナニャドラヤの存在を知ってから5年が経つ

3.11以降何かに導かれるように毎年北海道や東北へ行くことになっている。

最初の目的は薬草酵素を開発、生産するために毎年夏になると北海道へ行っていた。

この話は長くなるので別に記するとして、行き道は福井県敦賀から苫小牧行きの船にバイクを乗せ、帰り道を名古屋までバイクで南下することにしていた。

思い起こすと3.11があり直ぐに名古屋へ避難、その後東京の住いの後処理をする為に戻った時、あと何年東北に立ち入ることができるのだろうか、、と考えていた。

お金もない放射能も避けたいと考えた末長野の志賀高原でしばらく住み込みで働くことにした。そこで一度離れていたバイクの楽しみを知る。同じ職場で働く先輩から2万円で譲り受けたsuzuki voltyに乗ってそのまま東日本を巡る旅が始まった。

その時は越後の芸術祭から長野で行われたONENESS CAMPへと流れて行った。

そこで東方の文化の奥深さに触れることになる。

 

https://www.instagram.com/p/P61_lutKjJ/

旅と単車と消防士

https://www.instagram.com/p/OquxNaNKhz/

長野巡礼

https://www.instagram.com/p/O3t_1mNKvB/

Instagram post by IJT aka パカッ太 • Aug 28, 2012 at 11:46am UTC

越後トリエンナーレで出会った”車座おにぎり”

これは自分の今の活動に多大なる影響を受けたある意味で衝撃的な体験であった。

これは芸術祭運営本部の唯一の企画であり画期的な表現でもある。

米どころ、魚沼コシヒカリの産地でもある十日町でゲリラ的に始まる車座おにぎり

地元のおばちゃま達がお結びを握ってくれ、そこにたまたま居合わせて人達に御馳走してくれる。

そしてそのお返しを何らかの形で返してほしいという企画だ。

歌う、踊る、手伝う、宣伝する、後で何か送る、募金する、何でもいいから表現してくださいというシンプルな企画なのだが、そこでとっさに何が返せるのだろうか、、と皆迷う。

お金であれば、おにぎりの値段相応のお金を渡すことで自分自身何とかつじつまが合う?というか、納得できるのだが、この体験、おもてなし、感謝の気持ちを金額に表わすことは非常に難しい、、今まで金額ありきで欲しいものにお金を払うことに慣れてしまっている我々には、ペイフォワード(贈与が先行する経済)の初体験は脳がフル回転するのがわかるほど真逆に近い価値観の変容が起こる。

車座になり順番に発表するあいだ、どうしよう、何しよう、、おにぎりが130円として、、物々交換だったら何があるかな、、等と考えまくっているのがその場に居合わせたみんなからも伝わってくる。

何にしようかさんざん迷った挙句儂は、じゃ明日から手伝います!といって結局その日から1週間ほどボランティアで芸術祭に関わることになり、今度は車座をもてなす側になった。

これは素晴らしい体験だったので、後日名古屋でアースデイをやった時に”車座お結び”という企画をやらせてもらった。正直成功とは言い難いが、体験した人からはいい声を聴くことができた。

こへび隊といったボランティアを受け入れる体制も素晴らしく、ふらっと行った儂みたいなモノも受け入れてくれるのだ。廃校になった学校でみんなで寝泊まりしながら食事をして芸術祭に関わる。旅人にとっては最&高の受け入れ態勢である。

放っておいたらいつまでもいてしまいそうなほど居心地のいい空間であった。

この時芸術監督をしていたのが北川フラムさん。

この人の、人の気持ちの細部にまで気配りするきめ細やかさには驚いた。

4年に1回の芸術祭として行うだけでなく人と人の関係性を構築していく為の仕掛けが沢山

裏側で行われていた。

https://www.instagram.com/p/O3tzXHtKu4/

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https://www.instagram.com/p/O5LaWltKtD/

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https://www.instagram.com/p/O7zjNMNKql/

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https://www.instagram.com/p/PJf54UNKpO/

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https://www.instagram.com/p/PK9xWKtKtZ/

Instagram post by IJT aka パカッ太 • Sep 4, 2012 at 11:10pm UTC

https://www.instagram.com/p/PK-HmDtKtq/

#車座おにぎり