ヒラキ ナオル

日々全出 アニッチャー 

ナカツ国

 

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中国に行って1番のカルチャーショックはわずか数キロ先にある大陸で起きている事をほとんど知らなかったという事実である。

 

国内移動よりも安く行ける隣国にもかかわらず国家(現政府)の流すネガティブな情報しか入ってこない為に行かない限り本当の事を知る術がない、(4年前行った時は上海で反日運動真っ只中との情報操作されていたが現場では好日の人しか出会っていない)

中国では日本軍の軍人がスラスラリーとか言っている時代錯誤なドラマをTVで未だに流していて一定数はそれを信じているのだが、30代以下の若者にそれは通用していない。それは日本も同じくであろうが時代に乗り遅れた人達はどこの国でも止まっている。

 

国家の言う事と国民の意志とはかけ離れているのは足元を見れば言わずもがなであるのにも関わらず人々は遠くの海外には高いお金を払ってでも行くのに国内移動よりも安く行ける隣国には行かないのだ 要はマインドコントロールされて自らの行動に制限をかけてしまっている

国内で高い移動費を徴収され狭い行動範囲の中で動きを制限され続けている。

 

結果煩わしいと思い込んでいる海の向こうに広がる大陸には興味を示さず内へと意識は向かう 日本全体がまさに引きこもり状態である

 

アジア分断の為の情報統制具合は異常なほど完成度が高く

中国国内ではFBは出来ないし日本ではwe chat(中国版SNS、お金のやり取りも出会いも全て無料)にも規制がかかっているようだ。

一方で右方はるか彼方の大国の洗脳情報はToo Muchな程入ってくるがお隣共産主義の良い情報は一切入ってこない。

その理由の一つに個人レベルでの情報共有がかなり面倒になるように仕掛けられている。

ここは敗戦国なので勝戦国に都合の悪い情報は流さないのは当然なのだが逆説的にみるとそこにはそれだけの可能性があると言う事でもある。

戦後強制的に価値観を西洋的な物質主義、合理主義、一神教ismに変えられた日本で育った僕らの世代は侵され過ぎて、失ったモノが何かすらほとんど知らない。

本来東洋の突端である特殊な状況の島国で長い間かけ自然に育まれてきた価値観、文化をほとんど知らないのだ。

 

ところがすぐ近くにそれを死守している国があるのだ。

勿論そうでない部分も同じくらい大きな問題としてあるのだが少なからず僕の目にはそう映る。

以前にも書いたが僕がいた中国では食事を一緒にとる文化があり、ここで晩酌をすれば自然と宴は始まる。しかも毎日である。みんなで踊る文化もあるのでparty peopleが多いのは扱く当然な事である。

あくまで僕があった中国人(この言葉に既に違和感を感じるが、要は同じ人種なのだが生まれた場所が違っただけである。個人的には大陸人と島人の方がシックリくる)は共産圏の恩恵なのか他人という概念があまりない。代わりに大きな家族意識みたなものがある。

個人的には以前の日本にはあったはずのこの共有感覚がとても愛おしく感じる。

これは全体主義というのか、全体を重んじる東洋的な感覚であると思う。木よりも森を重視する感覚だ

 

よく中国は何でも真似するとか言われるが当然日本も歴史を見れば今まで大陸文化をパクリまくってきた。

ところが大陸側からこの島を見ると何をそんなにこだわっているのか?という気になる。何を溜め込んでいるのだ?

今この時代にあるモノコトはみんなのモノコトではないのか?

良いものは広げる、共有するのが当然ではないのか?という具合にだ

 

身内同士家族内で奪い合い、競い合っているのだから

東洋的思想からしたら競争=狂想である。

割と話の分かると思っていた友人なども殆どの反応は中国は怖い、汚い、といった具合で

4.50年前の止まった情報しか入ってこない日本では中国の現状は予想も出来ないのだろう

マイノリティの数も少なく見積もっても10倍いる

これはいじめの法則でもあるが理屈の通じないいじめっ子から離れるにはより強い仲間を作ることだろう

米国からの独立を考えるのなら反対運動するより

中国と仲良くする運動をする方がよっぽど効果がある

いじめっ子と戦うより友達を増やした方が楽しいし

そうしているうちに遠くの力は及ばなくなる

後はバランスを取って自らの価値を高めていけば翻弄されずに生きていけるはずだ

 

日本が目覚めれば全く反対に向いた大国を繋ぐこともできるだろう

両極のイデオロギーを両方味わっている国は多くはないし、大国に挟まれた立地がその使命を何より物語っている気がする。

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中国的美意識芸術家#wujunyyong

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Instagram post by IJT aka パカッ太 • Apr 9, 2017 at 3:01am UTC

変容期

西暦2017から2018年に変わるいわゆるグレゴリオ暦での節目を機に目覚ましく変わりつつある内なる価値観。 

 

年明け早々気付いた手ぬぐい工場の解体。

ここには思い入れがありすぎて、久々の受け入れがたいほどのショックを受けたが、

メッセージと気付きが大量。失ったモノも大量。自らの動きの鈍さに反省。全てを明け渡しきれなかったことに反省。手を尽くしきれなかった事に無念。更に、ひっくり返って物質に固執していた自分に気付く。時代の流れには逆らえぬ不条理感と遺産を引き継ぐという思いが足を進めさせなかった、本当に大事なモノは何なのか、、

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diggin♫

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Instagram post by IJT aka パカッ太 • May 18, 2016 at 5:08am UTC

 

その後小林陽介という芸術家の生き様死に様

魂を残すという作業。物質を通して非物質に昇華していった表現

そして死後残る彼のメッセージは非物質ゆえに限りがない。マツリゴトを通して彼の周りで起きる現実化された彼の祈り

世界平和。ここには物質ではない故に精神的つながり充足感が不可避である。

 

そして、超物質的家屋のセルフビルドという協働作業。

ここでは協働の素晴らしさと場を作り出す物質の可能性を感じるが、家そのものの必要性を問われると何とも応えきれない。

そして植樹の現場では新築の素晴らしい家を見る、、

 

そして助成活動の空き家対策。

ここでは精神的充足を得るための場、共同体の必要性から、物質界の問題と向き合うことを半ば強いられていると感じてしまっている自分がいる。

 

わずか一か月足らずの間に物質と非物質の価値観に揺れ動かされている。

どちらも必要で、どちらも固執してはいけない世界。

どちらも手に入る。どこに進むべきなのか?

まさしく自分自身に起こる価値観の変容期である。

聖地巡礼 其の後

年明けの初仕事は小林陽介という男に召喚され紀国、熊野に行ってきた。
召喚というのも彼は昨年11月11日にこの世からあの世へ旅立ったからだ。
彼の死と向き合うことで今まで曖昧模糊としていた魂(たましい=みたまとつながる)というものが何なのかが腑に落ちる旅となった。
 
彼が終息の地に選んだ熊野の北山は偉大な自然の山深い中、青白い水が流れる絵に描いたような三途の川の彼岸で、黄泉の国の入り口の様な集落だった
死者、使者のマツリゴトをただ”やる”という目的以外に何も計画のないまま、何かに呼ばれるように熊野入りした。
生前陽介とは絡んだようで絡み切れず、互いを知るためにはもっと時間が必要だった。
互いに表現者として惹かれあっていた様な気がしたが、まさかこんなに早く逝くとも思っていなかったので、やり残したことが多くあった事に彼が死んでから気が付いた。
後悔の念を晴らす為にも、彼の肉体はもう現世にはないが、全て彼にオーガナイズされるように導かれることに委ねることにした。 
思い返せばそのころからこの祭への陽介の仕込みは始まっていたのかもしれない
そう思えることが何度もあったし、その場にいた数人からも同じような声を聞いた
目の前で次々と起こる超常現象は、現世と黄泉の世界の境目が実はとても曖昧でつながっていると伝えてくる
 
陽介とは縁あって3年程前に尾張名古屋のど真中に位置する日置神社で毎月二八まつりをひらいている時に奉納を演じる形で参加してもらっていた。
この祭もご縁から導かれるように始めた。ただ使命に応えるべく祈りの場を整えていた。
ここ尾張日置神社織田信長が必勝祈願の舞を奉納した場であり、麻の六芒星が社紋である。
そこに現れた表現者たちは自らの意思、ないしは何かに呼ばれ集った者たちだった。

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その頃は自らで彫った面をして5.6歳の息子タオと太鼓を叩いたり踊ったりとパフォーマンスしたり絵や書を書いていた。

後で聞いた話だが、そのころは彫刻ではやりきった後で表現手段を試行錯誤していたようだった。

彼は毎月遠く奈良の地からやって来ては、無条件に演じ終わると同時に消えている。
その動きはまさしく神出鬼没で、わしの目からはその行動自体がまぎれもなく表現だった。
”神事の仕事は分刻みだ!”と彼が言っていたことが懐かしくも蘇る。
 
彼の美しい死に顔を見たときに彼の残した作品と彼の行動が全て立体的につながった 
木彫刻という肉体の外側の造形から自らの肉体の表現、活動、魂の旅路へと内側に向かっていき、晩年の彼の活動は自らの肉体を作品として作り上げていった

その彼の無条件の表現、愛が時空を超え、彼の死後も人を突き動かしている

わしは彼の残した魂に反応し彼に突き動かされる様に場を整え続けていた。

二八祭は良い終わり方ができなかったと思っていたが、今回を機にすべてがつながり腑に落ちた。今となってやっていたことが報われた気がした。
 
更に驚く事に当時の写真を見ていて気付いたのだが、同時期に祭りに参加してくれていたがその時はすれ違い面識がなかった同年同名の陽介が近所に住んでいるという。
彼とは3年越しでの再会である。

因みにこの集落は日本で唯一、蛇払(じゃばら)という柑橘類が取れるのだが、この柑橘も縁があり、4年ほど前に友人と酵素を研究していた時にたどり着いた柑橘類でこの集落にしか生えていないので取り寄せたりもしていた。

思い返せば全てが運命である。

体現できたことに、彼の愛に感謝。

生きていること自体有り難し。多くの気付きをありがとう。

聖地巡礼 其の四

あの男が逝ってから2か月が経とうとしている

彼のとの距離は彼が死んでからいっそう近くなった。

陽介との出会いは何時だったろうか、、記憶にあるのは今はなきdecibelでかむあそうトライブスのliveの時だった気がする。突然息子と現れた彼はパフォーマンスともliveとも言えないまるで日常的にやっている儀式のようなことを息子と始めた。

ジャンベを叩きながらお経のようなものを唱えたり、息子の発する、衝動的な叫びや歌に

音に乗せるようで、気づくと音に乗っていたり、無垢で無為の行為に合わせているのか、合わされているのか、突然お面を付けて踊りだしたりして息子とのステージ上でのインプロ即興演奏だった。

その後尾張日置神社でマツリゴトを開催することになり彼の奉納の舞を何度か触れることになる

何かふとした時に彼の思い、面影がよぎる。これは決して感傷的な思いではなく、思いと同時に気合いが入ると言っていいのか、こっち側がアクセスしようとすれば何時でも常に彼からのエネルギーが届いてくる。そんな感じだ。

これは安富歩さんが語るマイケルジャクソンの思想と同じ現象だ。

以下では語っていないが、人は何で出来ているか?と問われたときに細胞の集合体であるという答えがある。しかし厳密には細胞をただ集めてだけでは人間にならない。細胞と細胞の関係性が成り立った時に初めて人間の肉体、物質は成り立つのである。要は関係性がこの肉体ないしはこの地球をこの状態に成り立たせているのである。

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彼の行為は関係性の種を蒔きつづけていた。

数々の彫刻は観る者との関係を作り、晩年は肉体のパフォーマンス、移動という形で表れていたように思う。

その結果は皮肉にも彼の死と共に形になった 。

聖地巡礼 其の参

次の行き先は、白山登山道の入り口にあたる石徹白。その奥地にある白山中居神社。

今回きっかけを作ってくれた山の隠れ家amidaのオーナーアキオ君の一押しの場所でここに行けば説明不要であると言われ迷わず行くことにした。

因みにこのアキオ君、一人で山小屋を経営するワイルドな山男なのだが、個人的にかなりシンクロ率が高く、地元が隣町で多くの共通の友達がいることもさることながら、1週間後に初めて行ったIKEAで犬のぬいぐるみを抱えた彼にばったり会って、その後夜中までダベれる店の選択まで一緒だった事にはまことの繋がりとしか言いようのない驚きと確信を得てしまった。

セレンディピティと言えばいいのだろうか、この能力を持った、いや、本来は誰しも持っている能力だが、そこを磨き鍛えてきた者同士が繋がるとこういうことが、ここ数年特に頻繁に起きている。

理の世界ではない、精の世界の出来事であり、ある種の神のおぼしめしとして導かれている。

今、日本では理屈では解せない出来事が沢山起きている。有史以来こういったことは起きていたのだろうが、闇に隠れていた悪事などがNETの進出により多くの人が事実を知ることが出来るようになった要因は大きいだろう。

儂、個人も3.11を皮切りにこの理屈ではない世界にこそ真実があるということに気付かざる得ない状況になっていった。

事実を知ることは今の時代誰にでもできるようになったが、真実を知るには自らの足でその道を進んでいかねばいけない。そこは暗闇の中、光もない状態で手探りで歩むようなもので、理解してから、計画してからといった思考先行の行動原理では追いつかない世界だ。しかしながら、ハイリスクではあるが、暗闇に目が慣れてしまえば大したことでない。

既にある、人間には及ばない圧倒的な法則。

この法則と向き合うことで現れてくる諸現象界。

その現象を事の波動として残す表現言語。

その言語を過去と照らし合わせて理解する人。

腑に落ちた言語で思考して想像。そして創造をする人々。

といった段階を見てみると、いかに思考というものが鈍感で時間のかかる代物だということがよくわかる。

白山中居神社に訪れたときに感じた感覚は、一言でいえば"これは本物だな、、”という感覚。神社でこのフィーリングを感じたのは初めてで、素晴らしい本物の芸術に触れた時の感覚に近い。この言葉にならない想いはこの後街で訪れた神社を訪れたときに確信に変わった。それは一言でいえば偽物感といったところだろうか、国家神道の流れでつくられた神社には意図的に作られた信仰感があるのだ。

その土地土地のエネルギー、大地や天候のメッセージを受け取り、人の中に自然発生的に現れる、自然に対する畏敬の念=土着信仰 から生まれた社と

国家を統制するために作られた全国共通の信仰感覚。同じ神社を名乗りながらルーツも成り立ちも在り方も真逆に近い状態ではそれを信じること事態が誤りであるというジレンマを生み出してしまう仕組みにもなっている。

これはとても大事なことだし、大変危険なじょうたいでもある。

言葉の意味を理解しない人が誤った意味で同じ言霊を発し続けるということは、言語と行動が一致しない人間が増え、当然世界はカオス、混沌となっていく。

残念ながらこの事実に気付く者も多くはない。しかしこれに気付いてしまったのだから後戻りは出来ない。

委ねれば導かれる。

この後、出逢った人々、不思議なご縁、現れる現象。すべて理解できることではないが事実、起こっているし、導かれる道はどこかに向かっているのである。

この後2週間ほどして名古屋のゲストハウスで郡上、石徹白の方の話を聞く機会があった。会場には色々な事情で集まった人々がいたが(メインは郡上で仕事をつくる話)中居神社の事を熱く話しているおじさんがいてほっとした。この思いが先行している感じが大事なんだと。

白鳥でもう1泊しせっかくここまできたのだからと白川郷へ行くと数週間前に春日井の町内祭りで出会った夫婦に道端で偶然か必然か出会い、彼らが主催するイベントに顔をだした。その後も流れに乗って郡上のドーナツ屋さんから東白川の友人宅へと渡り歩いて行く。そこで彼の訃報を聞いた。

後で思い返すと彼が逝ったその時間、郡上でドーナツが揚がるのを待っている時、儂の履いていた下駄の鼻緒が切れ、下駄屋が沢山ある郡上で良かったと下駄を選んでいた時刻だった。

聖地巡礼 其の弐

郡上八幡へ仕事で行かない?との誘いがあった時に既に何かが起きている予感がしていた。郡上八幡は郡上踊りを始めここ数年何かとつながっている場所だ。何やら縁を感じずにはいられない。

郡上は尾張名古屋から越前街道を北上した美濃(岐阜県)の中央辺りにある小さな城下町。今では東海北陸自動車道という有料道路のお蔭でずいぶん近づいたが、20年ほど前はずいぶん苦労して辿り着いた印象の地であった。

儂がまだ高校生の頃は名古屋から最寄りのスキー場でスノーボードができる場所も少なく、可愛がってくれていたパイセンに連れられわざわざ白鳥高原まで毎週末のように通っていた。詳しくは覚えていないが当時は5.6時間はかかっただろうか、

郡上はその白鳥のちょっと南下したところにある。決して便利とは言えない、むしろ辺ぴな土地であるこの地名を再び聞いたのは2011年3.11で名古屋に戻ってからなので6年ほど前からだろう。

昔からうっすらと噂に聞いてはいたが当時は琴線に引っかからなかった”郡上踊り”である。 8.9月の間に約2カ月間ほぼ毎日集落内で毎夜踊り続けるある意味で超人的盆踊りだ。中でも徹夜踊りと云われる4日間は朝まで踊り続ける。

何より素晴らしいのはお囃子を演奏、唄い続けるご高齢の先輩方の技術とスタミナである。この長丁場の祭りをわずか10名程度の町人が回しているのだ。しかも涼しげな表情で。これは並みの鍛錬、気合ではない、、

字幕入り『かわさき』完全版 郡上八幡・2012徹夜踊り最終日 - YouTube

この聞いただけでも素晴らしい祭りは実際参加してみるとさらに感動的であった。トランス状態になった浴衣姿の老若男女が雨が降っていようとも夜通し踊り続けるのである。野暮なはずがない。

3.4年ほど前に初めて参加してからは根がぱーりーぴーぽーの儂は毎年足を運ぶ場所になっていった。河原ではキャンプインして参加する数寄者同士の繋がりも素晴らしい出会いであった。

縁あって郡上の若手達が始めた八祭に参加したこともあって有難いことにマツリを通して人との繋がりも広がっていった。

郡上の歴史に詳しい方によると、どうやらこの郡上の町は外から来たモノを受け入れやすい土地柄らしく祭りのお囃子始め、色々な文化がここに流れ着いては継承されていくらしい

これはMedium Areaの業というのか、宿命であろう。日本という極東の地で世界の文化の受け皿のような地にあって中部地方の更に真ん中、美濃地方のど真ん中にある町である。

この地の利を見たときに何らかを拒否して生きながらえる事は困難であると推測できる。日本海側からも太平洋側からも常に人と文化が流れ込んでくる、日本の中心でもあるこの地は常にmediumな状態でもある。

mediumは中間や媒体など「間にあるもの」や「媒介するもの」を指す。その他にも(芸術などの)表現手段や巫女、妥協点といった意味合いを持つが、どの性質も中間層には必然とされる要素である。

中部地方で育った儂もこのmedium zoneの宿命といったことを常々意識するが、魅力がない、中途半端といったネガティブ要素に目が行きがちだが、これは完全に欧米主導のネガティブキャンペーンなので、裏を返せばそれだけこの事実に目覚めてほしくないといった意図が見える。

本来、これは地の利でもあり、土地の特性でもある故に非常に重要な役割でもあると捉えることができる。それは東西南北から集まってきた人々の波動を集め、文化の点と点を結び、人と宇宙、天と地を結ぶ役割である。

そしてこの地、郡上八幡ではそれをお囃子と踊りという芸術の表現手段で体現しているのである。これは日本ないしは人類においても一筋の光でもある。

長くなってきたので一つだけ追記していこうと思う。

それは江戸時代に唯一成功したと云われる郡上一揆のことだ。

農民が一致団結し政府の首脳部までも罷免した百姓一揆である。この歴史には教科書には乗らない裏がある。

庶民の文化は教科書や歴史には残らないが、実は綿々と人々に受け継がれ現代に残っているのである。ここで前記の都市の記憶、庶民の記憶という言葉が戻ってくる。

何故この時代に同時多発的に起きた百姓一揆が次々と幕府に封じられる中、この郡上の地だけでそれが成功に至たったのだろうか?(成功とは罷免した成果を残したという意味。実際には藩主から農民まで、一揆にかかわる人すべてが処分を受けた)

それは団結力であろう。

郡上を北上すると白鳥という集落がある、町では郡上よりビートが少し早くなった白鳥徹夜踊りが行われているが、神社ではお囃子の無い、唄と足音だけで踊る拝殿踊りが行われている。木製の拝殿の上で鳴らす足音が地を浄化すると云われている。ここまで来ると儀式になってくる。町で行われる男女の営みの部分は消え、祈りの要素が強くなってくる。

驚いたのがさながら宇宙DISCOの様な光の演出、踊りの輪の中心に浮遊するキリコの存在である。これは何ゆえか!!と解せないモノに萌える性分故に氣になってしまい、色々と聞き歩いたところどうやら、この踊りのルーツは天と地を結ぶ儀式の流れであることが分かった。

キリコは星が輝く様子を表していると説明を受けたが、暗闇で浮遊するサイケデリックな光と地上に伸びる光の柱は儂にはUFOにしか見えない、、

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この辺りの踊りには祈りや天との媒介といった要素が未だ残っている。

この信仰心の源が集落の西にそびえ立つ霊山、白山の山岳信仰だ。

そしてこの白山登山道の入り口であり、白鳥踊りのルーツと云われているのが石徹白(いとしろ)だ。

石徹白は平安時代から鎌倉時代にかけての白山信仰が盛んな時代には「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほど修験者の出入りで栄えた土地であり、近世(明治)まで神に仕える人が住む村としてどの藩にも属さず、年貢免除・名字帯刀が許されたところ

ここには現在の日本の支配体制とは真逆に近いことが起きている。

この辺りには平家平や平家岳など平家の足跡がたくさん残っているのも注目すべき要因だろう 。

そして、友人に進められ参拝した白山中居神社のこれが本物だという感覚、

白という名に導かれ流れついた熊野の地、究極の表現を目の当たりにした友人の死、

次回に続く、、

 

聖地巡礼 其の壱

2017年11月

目まぐるしく世界が変わってゆく

新たな体験が世界を広げていく

 

11月3日文化の日、この日から約1一月間尾張名古屋の町中を使って色んな文化芸事を披露するやっとかめ文化祭にボランティアとして参加してみた。

この祭、前から気になってはいたが行政主導のやり方にに微妙な距離感を感じていた、が大名古屋大学、学長に就任したヤマタクを切っ掛けにココにつながる。

思えばこれも日置神社から始まり、橋の下、森道、とマツリを巡り掘り下げればいろいろなご縁が繋がって導かれている、改めて人生とは本当に不思議な物語だ。

さて、初日はオーストリアグラーツから来た2組の話。

これはユネスコが名古屋をデザイン都市として認定しているところから始まっているのだが、このユネスコと都市との関係性が中々面白い。ユネスコの事務所は行政機関の中にあるのだが、やっていることは民の視点での文化を見つめ、活動している。さらっと見る限りハードとソフトが入り混じった機関のようだ

実際にユネスコにデザイン都市として認定?されたグラーツではデザインフェスタを実行し金銭的にも文化的にも結果を残している。保守的な街でのデザインを通した攻めの文化戦略都市計画の実例から学ぶ。

その中でも気になったのが庶民の記憶、都市の記憶と題して民衆の築いてきた文化に光を当てる例だ。

行政主導で進むとどうしても伝統文化、ハイカルチャーといわれるものだけを文化と取り上げる傾向がある。がこれは保守の部分で築かれた文化であるので、どちらかといえば護りの姿勢での文化行事になりがちだ。これはこれで悪くはないのだが、問題は更新していかないことだ。

この後某料亭で芸子遊びの会にも参加したが、これは完全に特権階級の遊びであってある意味で時間が止まっている。体験としては面白いが、正直身銭を切ってでも参加しようと思うものではなかった。はっきり言うとこれは税金を使っているからできる(人の金だからできる)遊びだなと実感してしまった。

リアルタイムの文化とは常に変化し生まれ続けている。

外から見ればアンダーグラウンドもオーバーグラウンドも同じである。

消費する文化と育てる文化。行政がどの姿勢でいるか、この違いはとても大きい。

しかしそういったモノに対して殿様が価値観を見出すことができないと、その町で文化は価値は無いものとされてしまう。そこに切り込もうとするユネスコの姿勢は中々頼もしい動きでもある。と

完全に内部でも外部でもない機関だからできる事なのだろう。

ここで面白いのは結局このカンファレンス自体が行政に向けて行われているということだ。町つくり国づくりの話は掘り下げていけば必ずそこにぶち当たる。

人生の質、文化の多様性を高めるには、どうクリエイティブにかつスムースに世界を美しくしていけるかがとても重要になってくる。ここでデザインという思考が浮き立ってくる。

問題の根底にはこの2分化した世界。管理する側、される側のせめぎあいの話があるが、彼らに文化を大切にする意識や行動、その新しい価値観を都市のDNAに組込む必要がある。といった話やそれを前提に具体的に行政側には嫌われてでも前例を作っていくといった、攻めの姿勢。多くの人を巻き込む仕組みなど学ぶことが多かった。

その他ホームレスチャンピオンシップや24hクリエイターバトルなど有名無名問わず参加できるぶっ飛んだ企画もあって、中々骨があっていい祭りのようだ。

グラーツ、気になる町がまた一つ増えた。

 

 

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