ヒラキ ナオル

日々全出 アニッチャー 

聖地巡礼 其の参

次の行き先は、白山登山道の入り口にあたる石徹白。その奥地にある白山中居神社。

今回きっかけを作ってくれた山の隠れ家amidaのオーナーアキオ君の一押しの場所でここに行けば説明不要であると言われ迷わず行くことにした。

因みにこのアキオ君、一人で山小屋を経営するワイルドな山男なのだが、個人的にかなりシンクロ率が高く、地元が隣町で多くの共通の友達がいることもさることながら、1週間後に初めて行ったIKEAで犬のぬいぐるみを抱えた彼にばったり会って、その後夜中までダベれる店の選択まで一緒だった事にはまことの繋がりとしか言いようのない驚きと確信を得てしまった。

セレンディピティと言えばいいのだろうか、この能力を持った、いや、本来は誰しも持っている能力だが、そこを磨き鍛えてきた者同士が繋がるとこういうことが、ここ数年特に頻繁に起きている。

理の世界ではない、精の世界の出来事であり、ある種の神のおぼしめしとして導かれている。

今、日本では理屈では解せない出来事が沢山起きている。有史以来こういったことは起きていたのだろうが、闇に隠れていた悪事などがNETの進出により多くの人が事実を知ることが出来るようになった要因は大きいだろう。

儂、個人も3.11を皮切りにこの理屈ではない世界にこそ真実があるということに気付かざる得ない状況になっていった。

事実を知ることは今の時代誰にでもできるようになったが、真実を知るには自らの足でその道を進んでいかねばいけない。そこは暗闇の中、光もない状態で手探りで歩むようなもので、理解してから、計画してからといった思考先行の行動原理では追いつかない世界だ。しかしながら、ハイリスクではあるが、暗闇に目が慣れてしまえば大したことでない。

既にある、人間には及ばない圧倒的な法則。

この法則と向き合うことで現れてくる諸現象界。

その現象を事の波動として残す表現言語。

その言語を過去と照らし合わせて理解する人。

腑に落ちた言語で思考して想像。そして創造をする人々。

といった段階を見てみると、いかに思考というものが鈍感で時間のかかる代物だということがよくわかる。

白山中居神社に訪れたときに感じた感覚は、一言でいえば"これは本物だな、、”という感覚。神社でこのフィーリングを感じたのは初めてで、素晴らしい本物の芸術に触れた時の感覚に近い。この言葉にならない想いはこの後街で訪れた神社を訪れたときに確信に変わった。それは一言でいえば偽物感といったところだろうか、国家神道の流れでつくられた神社には意図的に作られた信仰感があるのだ。

その土地土地のエネルギー、大地や天候のメッセージを受け取り、人の中に自然発生的に現れる、自然に対する畏敬の念=土着信仰 から生まれた社と

国家を統制するために作られた全国共通の信仰感覚。同じ神社を名乗りながらルーツも成り立ちも在り方も真逆に近い状態ではそれを信じること事態が誤りであるというジレンマを生み出してしまう仕組みにもなっている。

これはとても大事なことだし、大変危険なじょうたいでもある。

言葉の意味を理解しない人が誤った意味で同じ言霊を発し続けるということは、言語と行動が一致しない人間が増え、当然世界はカオス、混沌となっていく。

残念ながらこの事実に気付く者も多くはない。しかしこれに気付いてしまったのだから後戻りは出来ない。

委ねれば導かれる。

この後、出逢った人々、不思議なご縁、現れる現象。すべて理解できることではないが事実、起こっているし、導かれる道はどこかに向かっているのである。

この後2週間ほどして名古屋のゲストハウスで郡上、石徹白の方の話を聞く機会があった。会場には色々な事情で集まった人々がいたが(メインは郡上で仕事をつくる話)中居神社の事を熱く話しているおじさんがいてほっとした。この思いが先行している感じが大事なんだと。

白鳥でもう1泊しせっかくここまできたのだからと白川郷へ行くと数週間前に春日井の町内祭りで出会った夫婦に道端で偶然か必然か出会い、彼らが主催するイベントに顔をだした。その後も流れに乗って郡上のドーナツ屋さんから東白川の友人宅へと渡り歩いて行く。そこで彼の訃報を聞いた。

後で思い返すと彼が逝ったその時間、郡上でドーナツが揚がるのを待っている時、儂の履いていた下駄の鼻緒が切れ、下駄屋が沢山ある郡上で良かったと下駄を選んでいた時刻だった。