ヒラキ ナオル

日々全出 アニッチャー 

進んで化ける

皆さんもお気づきのように
実は人類の生きる次元は既に変わっている

311原発事故により放射能と言われる物質は何も目途が立たぬまま
その名の通り放射され続けている。
故意なのか使命なのか何かよく解らないが、放出され続けているという事実に変わりはない。

前後を考えず今に焦点を合わせると今起きていること、それも又必然である。

そしてそのまき散らされた放射能は人類に多大な影響を与え続けている。
そう、それは人類が望む望まないといった思考レベルでは追いつけないが
変化、進化しているというコトと何ら変わらないのである

しかし当の当事者達は殆どそのコトに気付いていない
なぜなら変化の途上とは今現在でしかなく
今起きているコトを表す行為は後から思考を通してでないと言葉にならない
要は思考が追いついていないのだ。

世界をよく観察すると、世界各国政府の動きとか価値観とか
2011以前では考えられなかっがたコトがあちこちで多発している
しかしそれを具体的に伝える言葉が未だ生まれていない印象を受ける

文化とは文字通り文に化けると言う事で、
化けるとは以前のモノから変化して別の物体になるという”段階がある”と言う事も含まれる
それはコト、起きている現象を文にして伝えるという
コト先行のモノ(言葉)から生まれる現象だ。

新たな芸術(そもそも芸術とは常に革新的な現象だと思うが、、)が世に認められるのは作家が死んでからといったことも常である
それはその現象(芸術的行為)が言葉になり人々が理解して初めて評価に至るのであって
そこには時間がかかるのだ、
一説には思考は直観の5倍時間がかかるといわれている

ところで、こんなご時世にメディアに騙されている人も少なくなってきていると思いたいのだが
支持率とか選挙がとかメディア茶番劇場には正直、アホ臭くて付き合ってられない
しかし、堅実により良い世界にしようと生きる人間をよそに、
愚かな人間の方が強い吸引力を持つのは何故か??と考えると、、
要は、、考えないから、、
人は思考よりも直観、行動の方が早いので追いつけないのである

ということは、対処の仕方も見えてくる、、
直観を信じ、行動し続ける(諦めづに)ことで結果は後から付いてくる
ここで重要なのは信じるコトだ、諦めた時点で結果は得られない
すると結果に囚われず純粋な行為が生まれる
これは思考やマインドで動きを封じる者たちよりも先手である。故にあちら側は後手に回る
結果は後から観察すればいい

わかり易く劣化していく国家、メディアの嘘を見抜けない
もしくは気付いていても行動できない
命よりも優先するものを選んでしまい身動きが取れなくなってる
これもまた自然という力に淘汰される基準になってきている

無自覚の覚醒者

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かくゆうわしもparty people でマツリ大好きの祭り男である。

しかし、昨今の政治離れと相反するかのように各地で盛り上がるパーティー、フェス、マツリ。

言葉と現象が日々かけ離れていくようなこの現象はなんなのだろうか、

マツルコト=祭、祀り、奉り、政

party=集う、社交、政治団体

かつて、行為を音にして表現していたころは祭政一致であった

人が集う行為と政治が直結していた。

人が集まる場を開き、仕切る者には権力が生まれ。

政治という名の駆け引きが始まった。

女の独占欲と男の嫉妬心の極み、

気付けば貪欲な者たちの欲望の極み=政治に経年変化してしまった。

では、その汚らしくも感じてしまう欲望の塊を無視して、接することを辞めてしまったらどうなるのだろうか?

大きな現象としてみると実感が湧きづらいが、ミクロの現象、自分自身の中で起こっていることも同じことが起きている。

敵は我なり。

欲望、これは人類が常に向き合ってきた最も手強い内的なモンスター、敵でもある。

欲には際限なく次から次へと湧き出る泉のようなもので、食欲、睡眠欲、性欲から始まり、出世欲、支配欲、独占欲とキリがないが、逆にこれが尽きたら人はエネルギーを得られず死んでしまう。

肉体と精神を維持するために欲は無くなっても追い続けてもバランスを崩してしまう、絶妙のバランス感覚が必要なのだ。

ここで重要な事は、欲とはパーソナルで超個人的な内面の事情でありながら、バランスを得るため、中心点を見出すには相反する超全体的、いわゆる社会的な視点が必要になってくる。

他者との距離感を測る客観的な視点だ、いわゆる間といわれる無いけど在る、モノでもコトでもない感じ。ま。である。

磁石はくっつくか反発するか、引力と斥力のバランスでモーターが回り、電力や動力が生まれたりする。

欲とは磁力みたいなモノで、引きが強すぎると何でもかんでも引っ付けて自らが埋まってしまうし、反対にしりぞける力が強すぎると周りを排除して孤立してしまう。

この現象を人は愛とか氣とか言ったりもする。

この力、地球にあるありとあらゆる現象の根本でもある訳だが

ありすぎてもなさすぎても人、ないし地球ははバランスを崩してしまう。

この力を使いマをツルことで人を引き付けエネルギーを集める装置がマツリでありパーティであった。

日の本では人と間を組み合わせて人間と言う。

この言葉はこの地で生まれた純度の高い言葉、事派、コトハだ。

そしてこの波動は意識するだけで現実化するという魔法、間法でもある。

これは人が言葉と意識で生み出す自然現象である。

ここでひとつ、間違ってはいけないことだが、意志の力は良くも悪くも、どちらにでも使える力でもある。

政治の世界においては間を違った方法で使ってしまっているということだろうか。

この距離感を知るために人はぶつかったり離れたりして色々な問いを解決してゆくのだが、これは一人で立ち人に揉まれ、切磋琢磨しながら自らで見出す距離感でもある。

誰も正解を一言で表すことは出来ないし、教えることも出来ない。

ここで問題が浮き彫りになってくるのだが、いまの権力を持った政治家の殆どが世襲制でいわゆるボンボンのためにこの切磋琢磨して自らの欲を削り人との距離感を図るということをしないまま、お金と地位の力で大人になった者の集まりになってしまっているので、簡単に言えば間の取り方が解らない。=間抜けの集まりになってしまって、しまった死間ったというコトになる。

では、逆に間に合うコトとはどういう事なのだろうか、、

日本語は優れた言語である。これも言葉に表されている。マアイ、間合、真愛。

真実の愛である。独善的な愛ではなく他者を想う愛。見返りを求めない愛。

在るがままを愛する。干渉も無視もしない、絶妙の距離感の愛。

では、具体的にどの位の距離なのだろうか?

やはり、日本語は優れている。

”1間=6と定義され、1=(10/33)メートルと定められたので、1間は約1.818 1818メートルである。

60間が(丁)となる。また、1(歩)の面積の正方形の1辺が1間である。”

要は間=一歩ということだ。

そんなもん人によって違うじゃないか、と思うが

ま~いい、ま、いいか!位が調度いい加減でいいかげんなのだ。

 

そして、いよいよ本題に入るが、この間を詰めるというのは言い換えると

エネルギーが集まるという事であり、言いたかったはこの現象の可能性だ。

出来ない原因を知ることで出来ることの可能性が見えてくるのだ。

人というエネルギーが集まることによって何が起き何が起こせるのか、

この可能性と方向性を決めていくのが本来の政治であり、建設的な未来の構築であるが、ここで引っかかるのが、欲であり引力の加減である。

この力の加減が丁度良い距離感、間を図ることで磁石が回り続ける永久発電、永久動力を生み出すことができるのだ。

これは男と女であれば子が生まれ、保守と改革であれば中道が生まれてくるのだ。

これが多くの日本人が白黒はっきり付けず、日和見であり自らの意思をはっきり言わない理由でもある。しかし興味がないわけではなく間を測っているのであって、その中道を行く政治政党の出現を待ち望んでいる。

現状を野放しに、しかし虎視眈々と見つめている。自らは手を出さずとも意識の力で生み出すことができる。そうなることを知っているのだ。しかし、無自覚に。

フランスのルモンド誌で日本人は”無自覚の覚醒者”と揶揄されている。

でも、ま、いいか。

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medium land

 

 

 

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相変わらずなfuck'n gavermentの茶番劇は続くが、正直こちらにまで菌が移りそうで見てられない。 一方で善玉菌は順調に増えてる様子。捉えようによっては陰陽道を体感で学ぶいい機会だ

縁あって上海に渡った4ヶ月間、大陸から島国を見、気付いた事を独断と偏見で記そう

見事に洗脳されている日本人代表として、中国の印象は良くないまま上海行きは決まった。然しここ最近の気付きからメディア、政府の嘘の裏には真実が隠れている事が確証され、真っ暗闇に隠された眩い光を見たくなった

根っからの向こう見ず、闇に足を踏み入れるのに興奮を覚えてしまったのだ

持ち金は1万で帰りのチケットは買わず、何の当てもないまま、ただ何とかなるという確信、もしくは何とかするという根拠なき自信をバックに入れて飛び立った

向こうでの生活は見事なまでにChina Quick、ワイルドでタフな好バイブレーション(ハオバイブス)にノリのみでライドンしてきた。これはこれで奇跡の連続、超常現象の連続なので長くなる為、後日記するとしよう。

今回は本当の中国と言っていいのか、捻じ曲げられた情報の上での中国ではなく、超個人的ではあるが、体験してきた中国、国家の感想を記するとする。

結論から言うと、日中間は見事に作られた計画であり、対個人で反日感情等に遭遇する事は見事に一度も無かった。むしろ僕が会った人の多くは親日家で、日本のアニメ、音楽、映画等、日本文化をイリーガルで自らで掘り、学び日本語を話せるまでになっている若者が沢山いる事に驚いた、ここは中国教育の賜物だ

そして、彼らの多くは政府など全く信用していなかったが、党のパワープレーになす術なく、日本の若者同様に牙を抜かれている印象だ。然し彼らは日本が失った誇りと自信を持ち合わせていた。そして彼らには無い日本の想像力、クオリティ、精神力、文化に興味を抱きそれらを学び欲していた。

お互いに無いモノを持ち合わせた、同じ肌をしたアジアの民。見方を変えれば相性が悪い訳無いのだ。彼らとのセッションからは数々の奇跡的体験をした。兎に角話が早く次々とクリエィションし拡がる、レスポンスもでかい。カルチャーに飢えた土壌はよく肥やされていて種を撒くと次々に芽が出てくるのだ

共産主義の恩恵も沢山ある。まず生活ベースが安く衣食住、移動がし易い。物の値段、人件費も安い。故にクリエイションし易いのだ。彼らにとっては土地もお金も皆のものであるから日本人の様に抱え込む所有欲の様なものがほとんど無く持っているものが出す、彼らのシェア感覚は日本人が学ぶべき術だろう

そして皆が家族の様な一体感もある、見ず知らずの者同士が熱く語り合うシーンはあちこちであり、印象的だったのは公園で一人のおじさんが声だかに話すのを多くのおじさんが周りを囲んで耳をそばだてて聴いているのだ。内容まではわからなかったが、その個人の声をちゃんと聴こうとする態度がとても素晴らしい行為だと、これが中国の文化だと感じた。

かたや少し離れると習字や囲碁、ダンスに民謡、カラオケ、ドラム(の練習)等各々が好きな事を公園内で所狭しとやっている様子はまるで文化祭のようだった。

深夜特急に乗った時は社内が修学旅行の様なノリで、彼らは純粋なまま大人になっているなと妙に大人になっている自分にさみしさすら感じた。

日本では学校卒業と同時に失うあの感覚は何なんだと考えると、社会に出ると同時に世界の金づるとして経済奴隷に成り下がり、誇り、自信を失うまで働き、自ら命を断つ者を量産するピラミッド型の仕組みの中では、どんなにお金を稼ごうとも時間泥棒に魂を削られてしまうのだ。しかし僕の見た中国は違った

厳密にはどちらの国も問題は山積みなのだが、大雑把に言うと共産主義と資本主義で別の問題を抱えていて、お互いに無いものがありそれを必要としている。しかし日本は東に向いて遠く西洋の文化に憧れ、吸収し発酵した文化は行き場を失い腐りかけている、目の前に10億を超えるアジアの民がこちらを見ているのに、コミットできていない。本来の外交を意味する循環器系が病んでいる。

無限の可能性を秘めたアジア、しかし後ろで糸を操る英米、結社、武器商人達にとっては、圧倒的数で勝るアジアが一つとなる事が脅威である事は間違いなく、何としてでも日中間を一体化させない為に38度線でアジアを分断し、いじめられっ子を生み出し、マスコミ、政治をコントロールし、戦争を煽り金の算段をしているのだ。

しかし庶民にとってそんなことは遠くの価値観の出来事で、日々の生活には直接関係のない話で、違いを楽しめる人にとって外来の文化は愛しさでしかない。

結局、人は同じ時間を共有すればするほど愛が満ちてくる生き物なんだと思う。

きっと彼らにとってそれこそが最も脅威であるからこそ、分断という形で一体化することを拒むのだ。しかし、既に知ってしまった人間にはどう邪魔をしようと防ぎようが無いのだが、、

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ゆめをみた

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久々に印象的な夢を見た。

ロシアっぽい社会主義だけど自由な感じのするパレード部隊がCIAの本部を占拠した夢だ。

赤や青といった制服をきた老若男女が派手に踊り楽器をかき鳴らし

一糸乱れぬ動きで平和的にアメリカ各地を占拠していく。

ただそれだけの夢なのに妙にリアリティがあり、この世の目覚めを感じた。

こうやって世は変わっていくのだな~と

夢で見たあの雰囲気の動画を探してみたがそう簡単には見つからない、、

でも、テンションはこんな感じ、いい感じ~


The Hot 8 Brass Band - 'Sexual Healing (Official Video)' [Marvin Gaye Cover]

 

そんでもって尾張名古屋の今日の天気! ずいぶんおかしいぜ!!

夕方の雷、轟音の前に変な音がした。

一瞬だけど金属が擦れるような大きな音。自然界では聞いたことない音です。

稲妻の光も音も鳴らさず壊れた蛍光灯みたいずっとピカピカしてる。

しかも一定方向の同じ個所から。

そんでエネルギーが溜まったらドカンと落ちて(一発じゃなく2,3発連続で)

雨はすごく狭い範囲で一瞬だけ豪雨。

雷の鳴り方も何だか不自然。音に敏感な人なら解るレベルだと思う。

先日岐阜の郡上踊りあけで雷雲にあたってから帰って直ぐ名古屋近郊での雷音聞いたら鳴りが全然違いました。

(郡上の雷も光と音のバランスがちょっと不自然だったが)

ワシの住んでいるエリアは日本の中でもかなり雷の多いエリア。

龍神様も沢山祀られている。

幼少期からかなりの雷を体感してきているが、こんな不自然な雷雲今まで見たこと無いでげす。

色々と極まってきてますな。

わも

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悪く言えば氣が散りやすく。よく言えば色々なところに氣がつく筆者にとって

ブログを続けるには無理なく書きたいことをつらつらと落とし込むのが調子委員様子。

先ほどまで何を書こうか考えていたが、もう忘れてしまったし、ひとまず2日目なので何も決めずに書けることから記していこうと思う。

まず、一人称を何と言うかを決めようと思う。いつも何て書けばいいのか迷うからだ。

自分、わたくし、わたし、うち、朕、わらわ、俺、僕、拙者、それがし、あっし、あちき、おいどん、わし、みー、よ、わ、、等々

この自分を何と呼ぶかと言う問いは、まさしく問題定義=ARTだと思う。

呼び名が重要なのは言わずもがなだが、呼び名で違うキャラが形成されて、もしくはして、人は一生名を背負って生きて逝く

その名を自分で決め名乗るのだから一世一代の表現といってもいい。

それも親に決められた名前ではなく自ら決め名乗る名だ。

ある意味でどう生きたいかでかなり違う己が出てくる。

まあ、変化していくことも大いにあるが、

語源を辿ると貴族や奴隷、尊厳を含めた語であったり自分を下げてみる謙った言葉など様々だ。要は身分によって自らの呼び名を決めていた、もしくは決められていた。

昔はそうだったかもしれないが現代においてはほぼ無意識に名乗ってる人が多いように感じる。しかし言霊は少なからず残っていると考えると、

自らを名乗ることで自らでマインドコントロールしているとも考えられる。

僕(ぼく)なんかはよく使ってしまうが、これは完全にしもべという意味である。

今気付いたが漢字もしもべと入れると僕と出てくる。

これはちょいといただけない、、

それがし、わしは自分を何と名乗ろうか、、

音としてしっくりくるのは、わ、れ、よ、し、といったところだろうか、、

僕も俺も私も時と場合によっては違和感を感じて使い方を困る時がある。

今の処、文章で表すのにしっくりきているのは、”わし”が第一候補である。

https://www.instagram.com/p/UNfgU7tKvP/

#排気口

https://www.instagram.com/p/BSirbXpgb9f/

#china#wall#is#hole

スキッパです。改めましてよろしくお願いします。

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先日、小学生以来の差し歯であった前歯が抜けた。

これを期に久々のブログの再開しようと思う。

思えば3.11前後で僕の生き方は180度変化した。

3.11以前の僕はこの社会システムから外れたところで生きる術を模索していた。

3.11当時は流れ着いた西東京は武蔵野の地、吉祥寺という街で自分の能力と日々の喜びを物々交換しながら、バイトしながら陶芸教室に通い1万前後の家で共同生活をするといった形で日々の創造と日常を行き来し、今思えば浮世離れした生き方を模索する日々であった。

(江戸生活期はそれはそれで色々な経験をさせてもらったので又別途記事を残そうと思う。)

僕は小5の時、10歳前後と割と早い段階でこの国の社会システムに対して見切りをつけドロップアウトしていた。幼少期から向き合った社会に対して僕の選んだ生き方はそのやり方が最善であった。

(この幼少期の目覚めも後日記するつもりです)

それまで僕は江戸という土地からのエネルギーを得て、洗練といった言葉に現れるような、ある種の削ぎ落とす文化の中で自分にとって必要のない思い込みや能力を削ぎ落としてきた。

貧乏生活の傍ら、瞑想や菜食、断酒、断煙、断性といったものと出会い、無駄なモノを次々と手放していき、荷物も家も最小限で生きられるような生き方を模索していたのだ。どんどん身軽になっていく自分はこれからどこへ向かうのだろうか、、

そう思っていた矢先3.11が起きた。

正直この国がこうなる事は、多少予測はしていたが、思った以上にひどい状態である。

情報が交錯する中、真実を求めネットを探るが知ったとて事実からは絶望感しか生まれない。

この国の行方は知れば知るほど絶望しかないのだ。

しかし幸いにも、東京という小さなエリアで活動する人々が混ざり合う地では、無自覚ではあるが多くの仲間と情報や知恵を共感するネットワークが形成されていた。

その大切さに有事があって初めて気付かされたのだ。

絶望を共感できるというコトはある種の希望でもある。

最初の雨は避けた方がいい、、そんな情報が仲間内で流れると、居ても立っても居られなくなった僕は次の日にバイトを辞め、ひとまず数人の友人と共に実家のある名古屋に戻った。

厳密には2日後には東京を離れ名古屋に戻ったのだが、寝ずにネットに張り付いて情報を収集していたそのころから、思考先行型の行動原理に限界を感じ、直観先行の型行動原理に切り替えなくては生きのびられないと感じていた。

色々な情報を得て真実を知ったとしても、結局は脳を納得させているだけに過ぎず、そうこうしている内に状況は刻一刻と変化し悪化しているのだ。

津波の圧倒的な力に人間は成す術もなく、逃げきった者だけが生き延びる事実を突き付けられたのだ。それは放射能も同様である。

簡単に言えば直観を信じ行動して、それから考えると言う事なのだが、言葉で言えば簡単なことだが、現代の日本社会はそのように構成されていない為に、この生き方を貫こうとしても社会では中々通用しないのである。

3.11以降、久々に舞い降りた尾張名古屋の地ではこれまでの自分の生き方では社会に対して接点が少なすぎる為、行き場、生き場が無いことに気付いた。

そこで3.11をきっかけに気付いたこの生き方を試行錯誤し模索する日々が尾張の地で始まったのだ。

これは正しくオワリのハジマリである。

色々な事を直観的に行動してきたが、そもそも記憶する事をあまり重要視しないで生きてきた為、時間軸や記憶が飛び飛びになり前後関係がよく解らなくなってきたので、今後は今までの活動を明確化する為にも、思考の整理整頓の意味も踏まえ再び文字を残そうと思う。

ざっと見ても3.11以降僕の目の前に起きた事は

  • デモから始まり選挙選対活動~助成金を使った社会活動への流れ
  • 祭、祀、政 本来のマツリゴトとは??
  • 薬草に始まり、醗酵の研究、酵素の開発
  • 中国との縁、北海道との縁
  • 東日本遠征と東日本のマツリ文化との出会い
  • 問題定義のARTと問題解決のDESIGN
  • 巻き起こるセレンディピティ
  • 消えゆく伝統文化と土着的感性
  • 言葉の限界と可能性
  • バビロン大国への旅と気付き
  • 社会性と個人性、公私の共通性

など、こんな感じの事が目まぐるしくぐるぐると目の前で巻き起こり始めている。

一見共通性の無い出来事が連なるがどれも直観に導かれたのは確かだ。

何処に向かうかは神のみぞ知る、、

何にせよやってみなけりゃ、言ってみなけりゃ解らない事の方が多いのは確かだ。

 

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